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およそ6000人のユダヤ人を救った杉原千畝が亡くなった日
杉原千畝は、1900年1月1日に岐阜県で生まれました。
お父さんは役人で、千畝は医者になることを望んでいましたが、千畝の夢は、外国語を学んで英語の教師になる事でした。
千畝は家出をして早稲田大学に入学します。
けれど学費を払う事が出来ません。そんなときに目に入ったのが、外務省による留学生募集の記事でした。
試験に合格すれば、お金を気にせずに勉強できます。千畝はこれに応募し、そのことがきっかけとなって、後に外交官になりました。
1939年、千畝は家族を連れ、外交官としてリトアニアと言う国にある領事館で働きました。

このころ、ナチス・ドイツ軍はリトアニアの隣の国、ポーランドを侵略し、ポーランドにいるユダヤ人の迫害を始めていました。
リトアニアはナチス・ドイツ軍の攻撃から国を守るためにソ連(今のロシア)に併合されることを選んだので、領事館は閉められることになり、千畝一家は次の赴任地に向かう準備を始めました。
ある朝、千畝は領事館の前に、ポーランドから逃げてきたユダヤ人難民(別記事 6月20日 今日は何の日?)たちが詰めかけていることに気が付きます。
ユダヤ人たちは、まず日本に行き、そこからアメリカやカナダなどに逃げることを望んでいました。日本に行くためには、日本のビザを領事館から発給してもらわなければなりません。
ですが、日本政府の許可なく、勝手にビザを発給することは禁じられています。
「それでも、ユダヤの人たちを見殺しにすることはできない」
千畝はそれから一か月のほどの間、許可のないままビザを発給し続け、およそ6000人のユダヤ人を助けました。
そして日本に戻った千畝は、責任を取って外務省を辞めなくてはなりませんでした。
ですがその後、ユダヤ人の命を救ったことが認められ、千畝はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」が送られました。
世界中が千畝の勇敢な行動に拍手を送ったのです。
1986年7月31日、千畝は86歳でその生涯を終えました。
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