まいど!kojiです!
京都の本能寺、夜明け前。
眠っていた織田信長は、突然の叫び声に飛び起きました。
「殿!明智光秀の謀反です!」
謀反とは、家臣(家来)が主人にそむいて兵をあげることです。
信長の味方の軍勢は数十人しかいません。信長は覚悟を決めました。
自ら弓矢を取り、明智軍と戦いますが、力尽き、燃え盛る本能寺に消えたのです。
天下取りの途中、本能寺の変で 織田信長が亡くなった日
1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変。
信長はこの時49歳。天下統一を目前にして、無念の最後でした。

信長は、1534年尾張の国(今の愛知県)で織田信秀の子として生まれました。
子供の頃から気性が激しくいつも乳母(母親の代わって赤ちゃんにお乳を上げて面倒を見る人)を困らせていました。
19歳の時、信秀が亡くなると、信長が織田家を継ぎ、自分に歯向かうものを次々と倒し、尾張の国の大部分を統一します。
1560年の桶狭間の戦い(別記事 5月19日 今日は何の日?)では、今川軍を破り、その後、松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結びます。

この同盟により、信長は元康を気にすることなく、美濃の国(今の岐阜県)を攻めることができるようになります。
こうして勢力をのばし、ついに室町幕府までも滅ぼします。長篠の戦いでは、鉄砲隊を上手に利用した戦法で、武田信玄(別記事 上杉謙信が生まれた日 1月21日)の後を継いだ息子の勝頼の騎馬軍団を破りました。
そして近江の国(今の滋賀県)の琵琶湖のほとりに安土城を築きます。そこでは、だれもが自由に商売が出来ました。
その後信長は中国地方を支配していた毛利氏を攻めるため、備中の国(今の岡山県)へと向かいます。
その途中で立ち寄った本能寺で、信長は最期を迎えることになったのです。


この日は他にも…
日米修好通商条約に基づき、横浜港と長崎港が開港した日(1859年)
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